【 第7章 「飛鳥」と「アスカ」の連結 】

 この章では「飛鳥」が地名「アスカ」の表記になった経緯を説明する。
 用字「飛鳥」が宮都名に採用された時期と、アスカ寺の寺号に採用された時期のどちらが先であったかは不明である。例えば、推古朝で同時に両者に採用された可能性もある。
 仮に宮都名に先に採用された場合は、都「飛鳥」と「アスカのみやこ」が並立するようになる。
「飛鳥」は塔・寺の連想語であり、「アスカ」は地名であるから、本来両者は異質の語である。しかし、やがて両者は連結する。
つまり、「アスカ」を「飛鳥」と表記したり、「飛鳥」を「アスカ」と読むようになる。
 この関係は、「平城」と「なら」の例でみるのが最も理解しやすい。
公的には「平城京」と命名された都だが、一般にはその立地から造営段階より「ならの都」と呼ばれた。平城京遷都頃のものとみられる木簡に「奈良京」の記載がある。
 「平城」と「なら」が並立することによって、両者が連結する。
『万葉集』原文に「なら」の表記として奈良・寧楽・名良・楢・平・常があるが、「平城」を用いた歌が9首ある。
和歌としては、すべて「なら」と読むべき歌であり、逆にいえば、「なら」の一表記として「平城」を使用している。
また『古今和歌集』の仮名序に「ならのみかど」、真名序に「平城天子」とある。
つまり、「平城」を「なら」と読むことが一般に通用したとみられる。
 国号「日本」についても、『日本書紀』神代上第四段に「日本、此云耶麻騰。下皆效此」とあり、例えばヤマトタケルノミコトを『書紀』は日本武尊と表記する。
『万葉集』では「天皇」を「オホキミ」とか「スメロギ」などと読んでいる。
 「平城京」や「日本」「天皇」は国家意識を反映して朝廷が主に対外向けや公的に使用した名称であり、「飛鳥」も同様である。
しかし、国内的には旧来の「ナラ」「ヤマト」「オホキミ、ミカド」「アスカ」が通用した。
民衆の漢字の素養がまだ低かったことも一因であろう。

 宮都名に先に採用されたとして「飛鳥」と「アスカ」が連結すると、「アスカでら」は容易に「飛鳥寺」になる。
以上は宮都名「飛鳥」が先行したとものして述べたが、「飛鳥寺」が先行したとしても同様の過程になる。

 「飛鳥」と「アスカ」の連結の結果、用語アスカの多くが「飛鳥」と表記されるようになった。特に公的文書では「アスカ」は「飛鳥」と統一的に表記するよう命令が下されたのであろう。河内アスカも飛鳥と表記され(飛鳥評)、アスカベも飛鳥戸・飛鳥部になった(安宿は後の好字令による)。
また「飛ぶ鳥のアスカ」という枕詞もこの連結によって発生したのである。
 第3章で「飛鳥」の発生の場が大和アスカか河内アスカのどちらかについては保留していた。
大和アスカには用字「飛鳥」の発生に関係する飛鳥寺が存在し、また国家の体面上宮都名に好字を採用したいという強い動機を有していた。
そこで、「飛鳥」の発生は大和アスカからであると断じる。河内の「飛鳥」は記紀の場合と同様に朝廷による統一化であろう。

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