【 第6章 用字「飛鳥」の採用 】

(1)用字「飛鳥」は宮都名に採用された


 用字「飛鳥」が飛鳥時代のある時期から公的に使用されたことは間違いない。
前述の金石文・瓦・木簡に見る宮名・評里名や奈良時代初期の『古事記』・『日本書紀』など官撰の書物や公文書に「飛鳥」の用字がみられる。
 『隋書』百済伝に「其都曰居拔城」、『旧唐書』新羅伝に「王之所居曰金城」、『新唐書』高麗伝に「其君居平壤城」とある。いずれも王の居住地を記している。
『隋書』倭国伝の開皇20年(600)条に「上令所司訪其風俗」とあり、倭国の事情を調べている。孝徳紀白雉5年2月条の記事「東宮監門郭丈舉、悉問日本國之地里及國初之~名、皆隨問而答」もこれに類するものである。
このように、中国は周辺諸国の王が居住し政権の所在する宮都名や国情を把握するよう努めている。またこれは朝鮮諸国や倭にしても同様である。つまり外交上、宮都名を明らかにすることは当然であろう。
 中国では「長安」「洛陽」のように地名に好字二字を当てる風習がある。朝鮮半島諸国もこれに倣い都名を「金城」「平壌」「漢城」などと命名している。
七世紀の東アジア動乱による国際情勢の緊迫により、飛鳥時代の為政者は強い国家意識を持つに至った。わが国にとっても、国の体面上唐風の好字二字の宮都名が必須になったであろう。
 私はこの動機によって朝廷が宮都名に用字「飛鳥」を採用したと主張する[24]。「飛鳥」は飛鳥地域のシンボルである塔・寺に由来する。
好字であり[25]、また狭義のアスカの範囲にとらわれない名称である。
 例えば『隋書倭国伝』が都と記した推古朝の小墾田宮の都はまだ「京」とは言い難いが、対隋外交の際、その宮都名に「小墾田」を用いたのだろうか。
私はこのとき、「飛鳥」が用いられた可能性を考える。推古朝は多分に東アジアを意識した政策をとっているので、「飛鳥」の採用は十分あり得る。そこで推古朝を宮都名「飛鳥」成立の上限とみたい。
 やがて、飛鳥周辺には豊浦寺・坂田寺・和田廃寺・奥山廃寺・定林寺・檜隈寺などが続々と建立されてゆく。飛鳥地域(狭義のアスカ及びその周辺地域)は伝統的な宮殿を中心にエキゾチックな寺院の堂塔が聳えているという、当時としては極めて特異な景観を呈していた。飛鳥地域の人々にとって、塔・寺がそのシンボルであったことに異論はないだろう。そして「塔・寺(トブトリ)のアスカ」というイメージが強く印象づけられたと思う。

 「飛鳥京」という言葉は史料に存在しない呼称である。しかし、相原氏によれば孝徳朝後半以降には飛鳥地域に京といえる都市的空間が存在していたとされる[26]。書紀ではこの京を一時期「倭京」「倭都」「古京」と記すが、倭は日本でなく、後の奈良県に当たる大和の意味である。そしてこの「倭京」などは難波宮や近江京と区別するための呼称であって、これらが都でなくなった後には単なる「京」を使用している。また『続日本紀』に「平城宮」はみられるが、「平城京」は平城京司2件のみで、「平城京」単独のの使用はなく、代わりに「京」が用いられている。
卑見であるが、「平城京」は主として対外的の名称であり、国内的には単に「京」ですませていたのでないか。とすれば、「飛鳥京」が史料にみられなくても、外交上これに当たる京名が実在していた可能性を考える。
そして、その京名は好字二字であり飛鳥地域の象徴に由来する「飛鳥」であったと思われる。
但し必ずしも「飛鳥京」という用語そのものというわけでなく、「飛鳥」という用字が京名として使用されていたという意味である。
前述のように、「飛鳥」は「アスカ」の地域にとらわれないので、宮都域が「アスカ」を越えて拡大した場合でも都合がよい。
なお、外交の場では用字「飛鳥」は当時の唐音で呼称されたであろう。
 「日本」の国号と「天皇」の称号は国家意識に根ざし、国威発揚を目的として主に対外的に使用された。宮都名「飛鳥」もこれらと軌を一にするものである。
 宮都名「飛鳥」の採用(成立)の下限は、史料から言えば「飛鳥部身=」木簡により687年(持統元年)から689年(持統3)までであろう。
国号『日本』ついては天武朝での成立を支持する学者が多いようだが、動機を同じくする宮都名「飛鳥」も同じ時期に成立したと考えたい。

(2)「飛鳥」がアスカ寺の創建期の寺号に採用された可能性

 飛鳥寺には複数の名称と表記が遺されている。しかし、創建時の寺号は明らかではない。
『日本書紀』では、法興寺(崇峻即位前紀7月、587)、元興寺(推古14年4月、606)、飛鳥寺(斉明3年7月、654)、明日香寺(天武11年7月、682)の4種がある。
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では元興寺の1種のみ記載している。
 福山敏男氏の説に従えば、飛鳥寺創建期の寺号は法興寺のような漢風寺号(法号)ではなく豊浦寺・坂田寺のような和風寺号であったことになる。とすれば、「アスカ寺」以外の寺号は思い浮かばない。
 口誦的には「アスカデラ」で問題はない。地元民はそう呼んだと思う。しかしその表記が如何であったかが問題である。
私の考えでは、まだ「飛鳥」は「アスカ」と結びついていない可能性が高い。
それでは「明日香寺」・「阿須箇寺」・「阿須迦寺」のようなものであったのか。
 仮に、当時の支配者層(Establishment)が対外的にこれらの表記を好ましくないと考えた時、寺号「飛鳥寺」が発生した可能性がある。裴世清来朝時に該寺は本尊を除いてほぼ完成していた。推古朝は小墾田宮のすぐ南に隣接するこの堂塔伽藍を誇示したはずであるが、そのときには相応しい寺号が必要であろう。
支配者層の間で「塔寺=飛鳥」がかなり浸透していたとすれば、塔と寺を備えたわが国初めての本格的寺院を「飛鳥寺」と命名することは十分考えられる。勿論、唐や朝鮮半島ではこのような伽藍は普通のことであったが、アスカの人々にとっては初見の大建築物であり、インパクトは強烈であっただろう。また、「飛鳥」の由来が塔・寺であるとは他国人にはわからないということもある。
ただし、「飛鳥寺」その読みは「トブトリデラ」ではなく「ヒチョウジ」のような当時の中国音であったと思われる。
以上、推古朝中期のアスカ寺の創建期に寺号として「飛鳥」の用字が採用された可能性を述べた。

●国号「日本」の成立時期を『日本書紀』中の「倭国」から推定する筆法がある。
例えば吉田孝氏は、『日本書紀』674年3月条の記事に「凡そ銀の倭国・・」とあるのは原史料の表記によるのでないかと考え、「日本」成立を674年以降と推定している[27]。
仮に「飛鳥寺」についてこの筆法を当てはめてみる。『日本書紀』天武天皇11年7月条(682)に「饗隼人等於明日香寺之西」の記事がある。この明日香を原史料の残影とみれば、表記「飛鳥寺」の成立は682年以降になる。更に、書紀ではこの「明日香」と歌謡の「阿須箇」以外は「アスカ」を総て「飛鳥」と表記しているので、表記「飛鳥」そのものの成立も682年以降ということになる。
この推論はいくつかの前提をクリアしなければならないので、到底成立は無理であろう。試案として述べた。


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