(2)日経新聞 収載:
「飛鳥」 語源は「塔寺」か 浜田裕幸
日本経済新聞 昭和61年(1986年)7月29日夕刊
先だって、車窓から「飛鳥」という料亭の看板をみかけてニヤリとした。
飛の横に「アス」、鳥に「カ」と、わざわざ片寄せてルビを振ってあったからだ。
アスカの話をすると、「飛鳥と明日香はどちらが正しいのか」とよく質問される。
十五年前、初めて飛鳥の地を訪ねた時の私も同じだった。
第一、「飛鳥」はアスカと読めないではないか。
ガイドブックには「飛ぶ烏」が明日香の枕詞(まくらことば)であることから、アスカの地名に飛鳥を使うようになったと説明しているものが多い。
ではなぜ「飛ぶ鳥」がアスカにかかるのか。
私は内科医であり、この方面には全くの素人だが、自分なりに考えてみることにした。
枕詞について総説的に書いた本は意外に少なかった。
その中に、契沖から折口信夫氏までの諸説を紹介したものがあった。
賀茂其淵や本居宣長も「飛ぶ鳥」がアスカの枕詞になる理由を考察している。
だが、どうも納得できるものがない。
例えば、「万葉集選要抄」の著者、恵岳は鳥が飛ぶときに脚をかがめて飛ぶ、だから「あしかがみ」からアスカに通じるんだという。
私は、兜(かぶと)の代わりにかぶったヤカンに矢が当たってカンといったからヤカンだ、という落語を連想した。
以来、私は飛鳥にこだわって調べてみた。
古事記、日本書紀、万葉集、金石文、木簡などに、古代の大和アスカの表記として飛鳥、明日香のほかに、安須可、阿須可、阿須箇、阿須迦と全部で六種が残されている。
木簡、金石文からみて「飛鳥」がすでに七世紀末に使用されていたのは確かだろうが、その起源はいつか。
網干善教教授はアスカの宮名と飛鳥寺の寺名の変遷から、飛鳥は大化改新以後から用いられたと推論されている。
天武朝以後と考えておられる学者が多い。
私撰的な万葉集では「明日香」の用例が「飛鳥」に比べ圧倒的に多い。
一方、記紀など官撰の文書では「飛鳥」であり、わずかの例外があるだけだ。
門脇禎二教授が指摘されたように「飛鳥」はアスカの公的表記になっていたが、その背景を考えてみよう。
飛鳥朝は中国・朝鮮の先進文化を積極的に取り入れた。都を長安にならって条坊制にしようとしたり、漢詩漢文を奨励した。伝統的なひざまずく礼を禁じ、唐風の立礼に変えたり、公式の場では唐風の服装をするよう命令している。
国の体面を重視した貴族官人の国家意識がうかがえる。
「日本」「天皇」の称号がはっきり用いられるのもこの時代である。
こんな背景を考えると、朝廷は帝都アスカの表記を体裁の良いものに決めなくては、と思ったに逢いない。
明日香や阿須可では対外的に格好が悪いのである。
唐の長安のように二字で好い字にしなくてはならない。
これこそ公式表記が「飛鳥」になった動機だと私は考えている。
「飛鳥」の地名表記が「飛ぶ鳥」の枕詞に由来するという考えは根強い。
だが万葉集にはたった五例しかなく、そのうち人麻呂の挽歌(ばんか)が三首を占めている。
地名が先か、枕詞が先かは今のところ決める根拠がない。
「飛鳥」とは何か。それはアスカにふさわしいものであるはずだ。
ある日、鳥にとらわれ過ぎていたんじゃないか、と気が付いた。
仮名がなかつたため、古代の人は漢字をあて字によく使った。
山常庭村山有等(大和には群山あれど)とか、見鶴鴨(見つるかも)のような例はいくらでもある。
それなら「飛鳥」も「とぶとり」のあて字かも知れない。
私は首都アスカの表記をどうしようかと腐心する飛鳥貴族の立場になってみた。
キーワードは「とぶとり」だ。
当時のアスカの景観は非常にエキゾチックであった。
飛鳥寺をはじめ数多くの寺院の堂塔が建てられていた。
それまでの建物といえば、皇居でも掘っ立て柱に植物性の屋根である。
そこに瓦(かわら)ぶきの大伽藍(がらん)と高い塔が林立している。
以前、そんな、所はなかった。
塔と寺がアスカの象徴であったことに異論はないだろう。
仏教伝来に伴って、塔と寺は朝鮮からの渡来人の伝えた技術で建てられた。
「てら」は古代朝鮮語の tjəl から転訛(てんか)した外来語である。
塔は現在「とう」と発音するが、昔は「たふ」である。
もともと梵語の stupa が中国で卒塔婆になり、さらに朝鮮を経由した外来語と考えるのが自然だ。
その古代朝鮮語は明らかでないが、現代語の tap と「たふ」の祖語であることからも、tap とみてよいのではないか。
「とぶとり」とは tap tjəl つまり、「塔寺」だ。不審に思われるだろうが、例えば、メリケンとアメリカン、トロッコとトラックのように、外国語がいろいろの発音で受け取られた例は多い。 tap tjəl が「とぶ」「とり」と聞き取られていても不思議でない。
私は再び飛鳥貴族になっていた。「塔寺」(とぶとり)はアスカにぴつたりだ。
よし、これもじった「飛鳥」を公式表記に採用するよう明日の朝議にかけてみよう。
そう考えながら、安らかな眠りについたのである。
(紙面の都合で原文を編集されたため、新聞の文脈に一部不具合な箇所がある。これを今回、元の原稿に戻した)