【 第3章 地名「アスカ」の表記 】

 人類の言語の発生ならびに本質は音声言語である。
古代日本には文字がなかったが、音声言語は存在した。
やがて朝鮮半島などからの渡来人たちによって漢字が伝来してきた。
当時マスコミはなく、規則や規制もなかったから、古代の人々はそれぞれ独自の手法でヤマト言葉を漢字で表記した。
同じ人でも時によって同じ言葉の表記が違ったことも考えられる。

 アスカの地名について現在に遺されている古代の表記は、@安須可 A阿須可 B阿須箇 C阿須迦 D明日香 E飛鳥 の6種である。
表記「安宿」は比較的新しいものであり、付論で述べる。
@からCまでの表記は1音節借音仮名てあり、D明日香は熟字訓「明日(アス)」と1音節訓仮名「香(カ)」を用いたものである。
Eは問題の「飛鳥」であり、地名「アスカ」との結びつきが全く理解しがたいものである。

(金石文)

『船王後墓誌(ふなのおうご)』
大阪附柏原市にある松岳山から出土したとされる金銅製の墓誌である。
辛丑年(641年)に没した船首王後を、戊辰年(668年、天智7年)に松岳山上に殯葬したと記す。
墓誌文中に「「阿須迦宮治天下天皇」とアスカの表記「阿須迦」をみる。
この墓誌の作成年が問題である。
素直に考えれば埋葬した戊辰年(668年)になるが、銘文中の官位の語から、この墓誌は天武朝末年以降の追納と考えられているE。

『小野毛人墓誌』
 遣隋使小野臣妹子の子である毛人の墓誌が、京都市左京区の崇道神社裏山で江戸時代に発見された。その地は古代の山背国愛宕郡小野郷に属し、小野氏の本拠地にあたる。
 銘文 (表面) 飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
    (裏面) 小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
に、アスカの表記「飛鳥」と「丁丑年」をみる。
 丁丑年は天武6年(677年)に当たるが、「大錦上」「朝臣」などからこの墓誌は持統朝以降に追納されたものとされる。

『采女氏塋域碑』
 河内国春日村(現、大阪府南河内郡太子町)から出土した石碑と伝えられるが、拓本のみ遺る。
碑文中に、「飛鳥浄原大朝廷」。文末に「己丑年」(689年、持統3)の年紀をみる。

『法隆寺金堂観音菩薩造像記銅板』
 法隆寺に遺される造像記であるが、像本体は失われている。
銘識中に、「飛鳥寺」「甲午年」(694年、持統8)をみる。

『長谷寺法華説相図』
 奈良県長谷寺に古くから伝わる大型の銅板図である。
銘識中に、「飛鳥清御原大宮治天下天皇」「歳次降婁漆菟上旬」をみる。
歳次降婁漆菟(ほしはこうるにやどるしちと)は戌年7月を意味する。
多くの議論が存在したが、現在この戌年は698年(文武2)と解されている。

 以上のように金石文にみる年記は追納などの問題があり、その作成年とは言えない。

(文字瓦)

 大阪府柏原市高井田の鳥坂寺跡から出土した文字瓦に「飛鳥評志母乃五十戸」の文字があり、後の河内国安宿郡資母郷に相当する評・五十戸とされるF。つまり河内アスカである。鳥坂寺は7世紀中葉に建立が開始された。釈読者の竹内亮氏は、この瓦が飛鳥評下五十戸の住民から寄進されたと考えている。
 奈良文化財研究所は2015年、飛鳥寺から出土していた文字瓦の再調査結果を発表したが、その中に「飛」の文字が書かれた瓦があったGH。
これは拙考に関連するので第5章(4)で詳述する。

(木簡)

 奈良文化財研究所の木簡データベースIには「飛鳥」と記載された木簡が現在二十数点ある。
その「飛鳥」は地名アスカ、飛鳥寺、人名(飛鳥・飛鳥戸・飛鳥部)の表記として使用されている。地名アスカを「飛鳥」以外の用字で表記した木簡はない。
 注目すべきは1999年飛鳥池遺蹟南地区から出土した「葦見田五十戸 飛鳥部身〓」と読める荷札木簡である。
〓は門構えに牛の字で、閉の異体字とされる。この字は『日本霊異記』で男性器「マラ」の表記として使用されているが、この木簡では「マロ、麻呂」の表記になる。
 葦見田五十戸は後の伊勢国三重郡葦田(アシミタ)郷で、現在の三重県四日市市水沢(スイザワ)町に当たる。葦田は葦見田の2字化である。
『延喜式神名帳』に伊勢国三重郡の式内社として足見田神社が記され、『大日本地名辞書』Jによれば正一位葦見田大明神の拝殿額を持つとある。 なお、この神社は現存する。
更に『大日本地名辞書』には、水沢の西に入道(ニフダウ)岳があり、黄玉石(トパーズ)・煙水晶・電気石(トルマリン)・辰砂(硫化水銀)・水銀を産出する、とある。
私は、入道(ニフダウ)は丹生(ニフ、丹=辰砂・生=産地)からの転訛と考える。
 本木簡が出土した飛鳥池遺跡南地区では富本銭鋳造を含む天武持統朝期の大規模な工房跡が発掘されている。
ここでは金・銀のような金属製品、漆製品、玉類など、多種多様な品目を製作していた。
この工房に葦見田から送られてきた物品はありふれた農産物ではなく、宝飾品に用いられる玉石か、あるいは辰砂・水銀であろう。
辰砂・水銀は顔料や防腐剤としても用いられるが、村上隆氏は飛鳥池遺跡の調査から銀の精錬に水銀によるアマルガム法が使用された可能性を発表しているK。
 飛鳥部氏は河内飛鳥を本貫とする氏族である。私は、飛鳥部身マロは葦見田土着の人ではないと考える。姓自体からもそのように考えられるが、玉石や水銀の産地である葦見田は飛鳥朝にとっては要地であり、身マロは特産物の生産と輸送の管理のために中央から派遣された官人とみるのが合理的である。
次にこの木簡の作成年であるが、7世紀後半(678年頃か)から8世紀初めにかけて操業された工房が存在した飛鳥池遺跡南地区からの出土であること、および「五十戸」に関する荷札木簡の知見Lなどによって687年(持統元年)以前、遅くとも浄御原令が諸司に頒布された689年(持統3)以前と推定できる。

(書物)

 『古事記』では「飛鳥」以外の表記はない。
履中記に「 斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之、今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜~宮。故、號其地謂遠飛鳥也。」がある。
ここで「近飛鳥」は河内アスカ、「遠飛鳥」大和はアスカと考えられている。
一方、顯宗記の「近飛鳥宮」は顯宗紀元年正月条の「近飛鳥八釣宮」に対応するものであるが、八釣を大和の地とみれば矛盾が生じる。この点については門脇氏の論考があるM。
 『日本書紀』では、斉明紀四年五月条の御製(紀歌謡118)の「阿須箇我播」と、天武紀十一年七月条の「明日香寺」のほかは、総て「飛鳥」の表記が用いられている。
「飛鳥」の紀での初見は履中即位前紀の「飛鳥山」であり、雄略紀九年七月条の「飛鳥戸郡」とともに、これらは河内アスカである。
大和アスカを指す飛鳥の初見として、雄略紀十四年三月条に「飛鳥衣縫部」がみられる。

 『古事記』は和銅5年(712)、『日本書紀』は養老4年(720)の完成である。
両書は官撰の書であり、文中の用字・表記が原史料のままであるとは言い難い。
『日本書紀』で「評」がすべて「郡」に書き換えられたように、編纂時に「アスカ」を「飛鳥」と統一して表記するような命令が存在したと思われる。

 『万葉集』では、@ADEの4種の表記がみられる。
最も多いのがDの「明日香」で、27首ある。内1首(10/2210)は河内アスカの飛鳥川を詠んだ歌であり、他の26首は大和アスカである。
地名・宮名に「飛鳥」を用いた用例は5首ある。内1首(16/3886)は河内アスカであり、他の4首は大和アスカである。枕詞として使用された「飛鳥」は4首にみる。
 @安須可A阿須可は第14巻に川の名として各1首に用いられている。第14巻は東歌とされるので、これらのアスカ川が大和や河内の飛鳥川であるとは断定できない。

 上記史料における「飛鳥」は飛鳥浄御原宮と枕詞「飛鳥」を除くと地名「アスカ」に関連する固有名に用いられている。
そこで古来「飛鳥」は地名「アスカ」の一表記と認識されてきた。
 根源的に理解すべきことがある。
「飛鳥」は全く「アスカ」と読めない。また「アスカ」との結びつき方も想像し難い。
従って、「アスカ」という固有名(地名・人名・寺号など)の表記として「飛鳥」を用いることが多源的に発生するとは考えられない。
「飛鳥」はそれほど極めて特殊な用字と言える。つまり、「アスカ」を「飛鳥」と表記することは、ある特定の場で発生したものである。
はっきり言えば、発生の場は大和アスカか河内アスカのどちらかであろう。
その他の地域の「アスカ」が「飛鳥」と表記される場合は、統一や伝播などによるものと考えるのが合理的である。


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