(4)アスカの語源 : アスカ=徒渉地 説
       (浅州処・浅処・足処・州処) 浜田裕幸
  2016年5月

 地名「アスカ」そのものの由来は以前から関心をもたれ、多くの説がある。
大学教授級の方までが参加され、学術書に書かれたりしている。
一方「奈良」「葛野」「江戸」などの由来は地名研究者たちの説があるものの、学問的にさほど意義がないということもあり、
アカデミックな議論に馴染まないとみなされているようだ。
 では何故、アスカの由来が特に取り上げられるのか。
それは、「飛鳥」という謎の用字の存在によるものと私は理解している。
「アスカ」と「飛鳥」の関係に対する関心が、「アスカ」の由来にも向けられるのだろう。
私は以前から、「アスカ」の由来は「飛鳥」問題と切り離して論じるべきだと主張している。それは、両者の由来に直接の関係
がないと考えるからである。
 大和アスカであるが、歴史学者はこの地名が何時の頃まで遡れると考えておられるのだろうか。仮に履中記の「遠飛鳥」、
雄略紀の「飛鳥衣縫部」を根拠にして、その頃の大和に「アスカ」という地名があったとする。
とすれば当時のアスカは開発途上の状況であり、飛鳥寺や王宮はまだ存在せず、歴史の表舞台には立っていない。
しかもアスカの範囲は現在の大字飛鳥と岡を併せたくらいの狭い地域である。
この2点を考えたとき、アスカの地名が数キロメートルも離れた土地の地名に由来するとか、影響を受けたとかは考えにくい。
河内アスカからの伝播の可能性はあるが、これは別問題である。

 アスカの由来についてどんなことが言われているか。

●「イスカという鳥の名から」・・・これは「飛鳥」にひかれた説だろう。
●「アショカ王から」・・・私の考えている地名発生の時期などからみても、同意しがたい。
●「アは接頭語とみて、スカは洲処(土砂が水面上にあらわれた所)とみる」
   アを接頭語とみなければならないが、魅力のある説と思う。
●「アは接頭語、スカは聖地を意味する」
   門脇禎二氏の説であるが、河内アスカも聖地なのか、あるいは大和アスカの転用とみるのか。
●「安住の宿の意味の安宿を朝鮮語でアンスクと言い、これが転じてアスカになった」
   かなり流布されている説であるが、賛同する歴史学者は少ない。
   それは固有名「安宿」の字から導かれた説のように思われるからである。
   「安宿」自体は「アスカベ(飛鳥戸・飛鳥部)」の好字二字化とされる。実際、この用字の古い史料をみない。

 このように、アスカの由来に決定的な説はない。
アスカという地名が全国に多数あることなどは本論第2章で触れた。
各地のアスカの地名ががすべて独立して発生したとは思えないし、また川内や丹生のように共通の由来から生じたとも言えない。
ここでは、河内アスカと大和アスカに限って考える。
なお、古代の河内アスカ(近飛鳥)は現在の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした狭い地域とみるべきであろう。
 河内と大和の地名「アスカ」の発生については、確たる証拠はないがかなり古い時期と思われる。
履中記にある近飛鳥(河内アスカ)・遠飛鳥(大和アスカ)の地名起源説話は一応の参考になる。
本論第2章で述べたように、土地開拓の時期から考えてまず河内にアスカなる地名が発生し、後に大和の類似の地に同じ地名が
伝播したと考えるのが合理的であろう。
 両アスカの共通点をみると、両地は小盆地にあり、飛鳥川が貫流する扇状地である(ただし古い時代には飛鳥川の名称はまだない)。
扇状地では川は幾筋もの細い派川に別れて中州を形成し、また川水が伏流水になって表面流量が減るので渡河には好都合となる。
私は、この河内と大和のアスカは「渡渉地」であったと考える。
 橋のない古代、川を渡ることは簡単ではなかった。そこで渡渉しやすい地点は重要であった。
Stratford-upon-Avonはシェイクスピアの生地として有名ある。
fordは浅瀬・渡場・徒渉地のこと。橋がない時代に川を歩いて渡ったり、馬車などに乗って渡るのに良い場所をいう。stratは古代語で、
streetに当たる。そこで直訳するとAvon川渡河道路になる。
因みにこの道路は紀元1・2世紀頃に古代ローマ帝国によって造られた軍用道路である。ローマ軍は拠点と拠点を軍事上直線道路で
結んでいったが、その間に川がある場合は最適な渡渉点を通過すべく屈折した。
英国にはfordのつく地名は多く、Oxford, Romford, Dartford, Chelmsford, Rochford, Guildford, Hungerford, Besford, Barford,
Bretford, Lawfordなどがある。Oxfordは Thames 川で牛を渡すことのできる浅瀬に由来する。
Furtはfordに当たるドイツ語であり、フランクフルトは Frankfurt am Main(フランク人のマイン川徒渉地)である。
fordのついた地名が多いことから、昔は徒渉地がそれほど要地とみられたことがわかる。

1.大和アスカ 
 大和アスカを流れる飛鳥川の源流は高取山の北東麓にある。
ただし古代、「飛鳥川」なる名称はまだ存在していない。
数本の渓流が栢森(かやのもり)で合流して水量を増し、稲淵を下り、祝戸で冬野川を合わせ、ミハ山の裾を廻ってアスカに出る。
そこからは甘樫丘の東麓に沿い北上し、雷丘の手前で西に大きく曲がって甘樫丘との間を抜け、その後西北に進んで大和川に合流する。
 飛鳥川の源流から祝戸あたりまでは渓流といえる。
栢森と祝戸の標高差は107m、水平距離は2.6kmで、仮に川を直線とみると河床勾配が 1/24の急勾配である。
太古の昔から豪雨や長雨によって上流の流路は浸食され続け、多量の土石を下流に運ぶ。
その結果上流では河床が深くなり川の断面がV字型になる。また川底には岩盤の露出や大石を見ることが多い。
 現在、稲渕で川床に大石を十個くらい並べ川を渡るようになっているところがある。地元は「飛び石」といっているが、万葉集ではこの
類のものを石橋と詠んでいる。川床が深いので、ここを渡るには岸から坂道を下り、飛び石を渡ってまた向こう岸の坂を登らなければならない。
荷物や家畜を渡すのは困難である。
 飛鳥川は祝戸を抜けると橘寺あたりで飛鳥盆地(甘樫丘と東の丘陵の間の平地)に入る。ここが飛鳥川の扇状地となり、
上流からの土砂や礫が堆積した。
 先の履中記にある地名起源説話では難波から石上へ行くのに、河内アスカ→当麻道→大和アスカを通過している。
国中(くんなか)と呼ばれる奈良盆地の平野部は過去に存在した奈良湖が大和川から排水して形成されたものであり、往古は湿原のため
平野部を通行することは困難であったと考えられる。遺跡の分布をみても盆地中央地域に古い遺跡はない。
そこで当麻道から南経由で石上に行く場合、飛鳥川を渡渉するために大和アスカを通過したと思われる。
 欽明紀7年条(546)に、紀伊国の漁師が檜隈を通り欽明天皇の磯城嶋金刺宮(奈良県桜井市)まで贄を馬で運ぶ話がある。
後に紀路と呼ばれる道を通ってきたその漁師もアスカで飛鳥川を渡ったのであろう。
檜隈(ヒノクマ)は現在の明日香村の大字・檜前で、5世紀初頭に朝鮮半島から渡来してきた人々が集住していた。
日本書紀では倭漢氏とか東漢氏と呼んでいる。  
 当麻道や檜隈方面から飛鳥川を渡る場合、どのような経路をとったのであろうか。
私は亀石付近から小山田・甘樫丘の東南麓(甘樫丘東麓道路)を経て弥勒石あたりで渡渉するのが古代のルートであったと考えている。
この甘樫丘東麓道路に面して蘇我蝦夷・入鹿に関係する甘樫丘東麓遺跡が存在するのも意味があることと思う。
飛鳥川を徒渉したあとは原始山田道を経て桜井方面へ、さらに山辺道を経て石上方面へ向かったのあろう。
 大和アスカには縄文時代から人が住んでいた痕跡があるが、弥生後期に発生した飛鳥川の大洪水によって埋没したとされる。
この扇状地を再開発したのは5世紀後半に朝鮮半島から渡来した今来漢人が主体であったと考えられる。
彼らは鉄製の農具などを使用し、排水と治水により湿地を乾田化した。
 アスカが開発されるに伴い、この地を貫流する飛鳥川の川筋が整備されたため、川は広く深くなった。
その結果、渡渉は困難になったが交通至便の場所に橋が架けられていったのであろう。徒渉地としてのアスカの役目は終わったのである。

2.河内アスカ
 古代の河内アスカ(狭義)は河内と大和を結ぶ大坂道と当麻道の分岐点あたりの狭小な地域である。
現在の大阪府羽曳野市飛鳥に当たる。大坂道は二上山の北の穴虫峠を通り、当麻道は二上山の南の竹内峠を越す。
付近の二上山周辺はサヌカイトと凝灰岩を産出して石器時代は石器、古墳時代は石棺や石槨の材料として利用されていた。
このように、河内アスカは河内と南大和を結ぶ道の要所にあり、また石材製造の拠点として古くから開発されていたと考える。
歴史的には大和アスカよりも早かったであろう。
 飛鳥川 もみじ葉流る 葛城の 山の木の葉は 今し散るらし (万葉集10/2210)
この歌にある飛鳥川は、葛城山から葉が流れてくるというので、大和の飛鳥川ではない。
二上山付近の源流から大阪府側へ北西に流れ、石川に合流する飛鳥川である。
大和の飛鳥川と同名のため、「飛鳥川(大阪府)」として区別している。
 河内アスカは飛鳥川が貫流する小さな盆地である。飛鳥川はここで扇状地を形成する。
古代の人々には、河内アスカの地を飛鳥川の徒渉地と認識していたと私は考えている。

3.アスカ=渡渉地
 河内アスカと大和アスカは上述のように、渡渉地と私は考える。
そして、「アスカ」は渡渉地を意味し、(浅州処・浅処・足処・州処)に由来するのではなかろうか。
但し、そのいずれからかは断定できる根拠がない。
浅州処(アサスカ)・浅処(アサカ)が「アスカ」に転訛することは容易に考えられる。
また州処(スカ)に接頭語「ア」がつくこともありうる。
足であるが、足を「アス」と発音する地方が現在でもある。
(「比佐さんも好いけれど、アスが太過ぎる……」
仙台名影町の吉田屋という旅人宿兼下宿の奥二階で、そこからある学校へ通っている年の若い教師の客をつかまえて、
頬辺の紅い宿の娘がそんなことを言って笑った。シとスと取違えた訛のある仙台弁で。)
島崎藤村の小説『足袋』の一節である。
信州人の藤村は「足・脚」を「アス」という仙台なまりに興味をひかれたのだろう。
 仙台弁では共通語の「シ」が「ス」になっている言葉が多い。
    しばらく→すばらく よろしく→よろすぐ
いわゆる「ズーズー弁」の仲間だが、イ段とウ段の母音が共通語の母音と異なることから生じる(中舌母音)。
先住民(縄文人)はズーズー弁を話していたという仮説を私は支持している。
縄文人は次第に弥生人と同化し、縄文人の言葉も消えてゆく。しかし一部の言葉は残存し、また地名に残っている場合がかなりあると思われる。

4.他地域のアスカ
 門脇禎二氏によれば、全国各地に「アスカ」または類似の地名がある。
以前私はその一つ一つを実地検証したいと夢見たことがある。もうとても実現できる話ではないので、
気になっている2つの地名の机上論を述べたい。

● 阿須賀神社
 和歌山県新宮市にある古社である。熊野川の河口近くにあり、古い時代には島であったらしい。上流から運ばれた土砂が
堆積して地続きになったのだろう。文献的には熊野詣が盛んであった平安時代の書にその名を留める。 
 アスカは徒渉地とする卑見からすれば、阿須賀神社のある辺りは有力な渡渉候補地である。
現在は河口付近は浚渫などで整備されているため渡渉は無理のようだが、昔は違った。
『十六夜日記』(1283年)に阿仏尼が京から鎌倉に下る途中、富士川を渡る場面がある。
「明けはなれて後、富士河わたる。朝、川いと寒し。数ふれば十五瀬をぞ渡りぬる」
富士川は駿河湾に注ぐ少し手前で山間部から平地に顔を出す。川が運ぶ大量の土砂により河口部に扇状地を形成している。
現在は治水により川筋がまとめられたため、とても渡渉できないが、『十六夜日記』当時は幾筋もの派川となって扇状地を分流して
いたため渡渉できたのである。

●足助
 愛知県に古くから足助という地がある。現在の愛知県豊田市足助町にあたり、紅葉の香嵐渓で知られている。
足助という地名が何時まで遡れるかは不詳である。清和源氏満政の子孫である浦野重遠の孫・重長は平安時代末期の武将であるが、
領地の名に因んで足助氏を名乗ったとある。
 足助は足助川が巴川(矢作川の支流)に注ぐ地である。往時より信濃に入る道の拠点であり、足助川の支流沿いに北上して信州伊那
に向かう。その道は古代では信濃に産出する黒曜石の交易路であり、江戸時代には三州街道(伊奈街道)になり、足助は宿場町になっている。
 巴川は源流から北上し、足助に来ると飯盛山・御所山に遮られ大きく蛇行して南西に転じる。この付近で川幅は広くなり、中州も形成される。
橋がなかった古代では徒渉地として最適であっただろう。私は徒渉地を意味するアスカから地名足助(アスケ)が生じたと考える。



                       足助 (愛知県豊田市)                                      阿須賀神社 (和歌山県新宮市)