(3)上代特殊仮名遣と飛鳥(とぶとり)
現在の日本語では母音がアイウエオの5種しかないが、上代にはより多くの母音の別があったとする説(上代多母音説)がある。
ほぼ定説になっているが、根強い否定説も存在する。
ここでは、上代多母音説に従って飛鳥(とぶとり)を考えてみる。
上代多母音説では母音「オ」に2種あり、便宜上甲類と乙類のオと言う。
甲類のオは現在のオと同じ発音である。
このオを発音する時、舌は後ろ(奥)の方に引いている。そこで甲類は後舌母音に属する。
乙類の「オ」は、唇の開き方は甲類と同じであるが、舌は後ろまで引かないで中程に置いて発音する。そこで中舌母音に属する。
つまり、オの唇の形でエを発音する感じである。
乙類の「オ」は国際音声記号の [ə]に相当すると考えられる。これは中舌で口の開きの度合いも中間的な中央母音であり、中舌中央母音または中段中舌母音と称ばれる。
現在の標準語にない発音であるが、東北地方(秋田、青森、福島)に残っているとされる。
甲乙のオを区別するため、甲はo、乙はöと記すようにしている。
öはoの上に点を2個並べて付けたもので、ドイツ語のウムラウトを借りた字である。
一方、上代では現在のようなカナがなかったので、漢字を借りて表記した。
いろいろな工夫して表記しているが、万葉仮名という表記法がある。
これは、漢字の一字一字を、漢字の意味に関係なくその漢字の音を日本語の一音節の表記のために用いたものである。
例えば、「多比(鯛)」や「佐米(鮫)」である。
中国はカナをもたないので、従来から外来語をこの方式で表記している。可口可楽(コカコーラ)、特朗普(トランプ大統領)はその例である。
上代特殊仮名遣では、甲類と乙類を区別して漢字を使用しているとされる。
トについては、甲類のトには刀・斗・戸・土などで表記し、乙類のトには止・登・等・跡などを使用している。
飛ぶ・鳥(とぶ・とり)ではどうか。
万葉集と記紀歌謡の中から、「飛ぶ」「鳥」を表記した万葉仮名を調べた。
「飛ぶ」は等夫(万05/0876 、万14/3381 、万15/3676)、登夫(記歌謡85)と記され、
「鳥」は等利(万05/0876)、登利(万14/3381)、登理(記歌謡85、102)と書かれている。
つまり、「飛ぶ」のトと「鳥」のトはどちらも乙類のト(tö)になる。
「飛ぶ鳥」はtöbutöriで、母音調和規則にも合致する。
乙類のト(tə) は中舌母音であるから、tap は təbu (飛ぶ)に転訛しやすいし、また tjəl も təli (鳥)に転訛しやすいことが理解できるであろう。
以上は私の塔寺説(飛鳥=塔・寺)の補強になる。
なお、鞍作止利の「止」も乙類のトである。
参考:
『日本書紀』崇神天皇60年7月条の「武日照命(ヒナテル) 一云、武夷鳥(ヒナトリ)」に関し、
坂本太郎他(1967)『日本書紀上』p250注14、日本古典文学大系、岩波書店に、
「Finateru と Finatöri の相違であるが、te は tö と交替しうる音であり、ri と ru とは共に狭い母音の音節なので交替しうる」
とある。