(1)豊浦(トユラ)= 寺(テラ)説 (浜田裕幸) 2016年4月

      地名「豊浦(トユラ)」は寺に由来するという説

 現在の奈良県高市郡明日香村に大字として豊浦という地区がある。
甘樫丘の西側に位置し、1889年の合併までは高市郡豊浦村であった。
古代は「トユラ」と呼ばれていたが、現在の地元読みは「トヨウラ」であり、明日香村役場でも「トヨウラ」としている。

 大和国の豊浦は『日本書紀』では推古天皇即位前紀(592年)の「皇后即天皇位於豊浦宮」が初出である。
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下『元興寺縁起』と略)には等由羅・等由良・止由良と表記され、『船王後墓誌』に等由羅とある。
本来「浦」の意味は、(海・湖・池などの、湾曲して陸地に入り込んだ所)である。
記紀で仲哀天皇が熊襲征伐の際、豊浦津に宮を造ったとあるが、この地は下関市の海岸近くにある。
奈良県高市郡明日香村の豊浦は地形上浦の本義に適当でない。
つまり古代のある時期から、この地は「トユラ」と呼ばれたが、後に「豊浦」の字を当てられたことによって、豊がトヨと読まれ「トヨウラ」になったと私は考える。

 『日本書紀』と『元興寺縁起』に仏教公伝の記事があり、ここに「トユラ」が出てくる。
両者の記事に錯綜したところがあるが、まとめてみる。

 欽明天皇の時代に百済の聖明王から仏教の金銅仏や経典などを献上された。
仏教公伝である。
その年が『日本書紀』には欽明13年(552)とあり、また『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説』に戊午年(538)とあるので、仏教公伝の年紀が552年説と538年説にわかれる。
現在、学校教科書では538年に統一している。

 欽明天皇は仏教の採用を群臣に諮ったが、蘇我稲目大臣以外は反対した。
そこで稲目は自分が祀ることを提案し、天皇は許可した。
稲目は聖明王から献上された金銅仏などを一旦小墾田の家に安置し、その後向原(牟久原、ムクハラ)の屋敷に移して寺とした。書紀での「寺」の初出になる。寺が礼拝所の意味であることがよくわかる。
向原の殿舎は、欽明天皇の皇女であり、また稲目の孫に当たる炊屋姫(後の推古天皇)の後宮であった。
 582年向原の御殿を櫻井に遷し、583年に初めて櫻井道場とした。
 敏達紀14年2月(585年)蘇我馬子は大野丘の北に塔を立てて大規模な法事を行った。
『日本書紀』での「塔」の初見である。
『元興寺縁起』には「止由良佐岐刹柱立」とあるので、現在のような瓦葺きで多層の塔ではなく、例えば太く長い柱であったかもしれない。
本格的な塔は後の飛鳥寺で見ることになるのだろう。
大野丘の位置であるが、『元興寺縁起』ではトユラの先に当たることになる。推古記に推古天皇初葬陵が大野の岡の上にあったとあり、橿原市五条野町植山の植山古墳がその有力候補である。このような関係で、大野丘は現在の甘樫丘から西方の丘陵地帯と推定されている。
 しばらくして、国に疫病が流行し多くの民が死亡した。
仏教反対派の物部守屋らは神の祟りだとして、塔を切り倒し、寺を焼き、仏像を持ち出して難波の堀江に流し捨てた(『元興寺縁起』では、櫻井道場は炊屋姫の後宮であるとして焼かせなかったとある)。後に櫻井道場は櫻井寺と称ばれている。
 この後587年に蘇我馬子は物部守屋を討滅する。
 592年に炊屋姫は豊浦宮で即位し、推古天皇となる。『元興寺縁起』には、櫻井等由羅宮とある。このあたりで、「豊浦」の表記が出現している。
 603年に推古天皇は豊浦宮から小墾田宮に遷る。
『元興寺縁起』には、豊浦宮の跡を寺にし豊浦寺にした、とある。
また、『上宮聖徳法王帝説』「裏書」には櫻井寺は「今豊浦寺也」とある。
すると位置的には、櫻井道場=櫻井寺=豊浦宮=豊浦寺になるか。
舒明即位前紀(628年)に山背大兄王が豊浦寺に滞在したと書かれている。

 一方、現在の明日香村豊浦に向原寺(広厳寺)という寺がある。
寺の名称は蘇我稲目の向原寺と同じであるが、同じ場所である証拠はない。
1957年から数次にわたってこの寺内を発掘調査したところ、下層に豊浦宮のものと思われる掘立柱跡と石敷があり、その上層に豊浦寺と考えられる礎石建物の遺構が発見された。

 そこで、私は以下のように考える。
現在豊浦と呼ばれる地域に向原・櫻井があり、ここで蘇我稲目が仏像を祀った屋敷を寺(古代朝鮮語で
뎔、tjəl、礼拝所)と呼んだが、そのヤマト訛りで「トユラ」になった( tjəl→tojəla→tojula )。

 この「トユラ」が向原・櫻井周辺の地名になり、当て字で「豊浦」の表記が生じた。
つまり、豊浦の語源は寺とみる。
 私は古代朝鮮語の寺
tjəl をトユラと受容した集団(向原・櫻井付近の住民など)を介して「テラ」という更なる転訛(tojula→tela)が発生したと考えている。
そして仏像の礼拝所としての寺の概念と「テラ」という言葉は6世紀中頃〜後期にこの地域に普及していたのではないかと思う。

■ 『仁徳紀』十四年十一月条と『住吉大社神代紀』に、上豊浦・下豊浦の地名を見る。古代の石川流域らしいが現在の場所は不明。
   また、『和名抄』に河内国河内郡豊浦郷の記載があり、東大阪市の枚岡神社付近に豊浦町として残っている。
   この地は古代に存在した河内潟の入り込んだ所であったから、浦の語義に合致する。
   なお、仁徳紀の豊浦と河内郡豊浦郷との異同は不明である。

■ 蘇我蝦夷(馬子の子、稻目の孫)は豊浦大臣とも呼ばれた。
   その理由について、蝦夷の邸宅が飛鳥近くの豊浦にあったからとされている。
   一方蝦夷は母・太媛(物部守屋の妹)の実家で養育された。その地が上記の河内国河内郡豊浦郷である。
   そこで、豊浦大臣の豊浦はこの養育地の名に由来するとの説がある。(門脇禎二1977『蘇我蝦夷・入鹿』吉川弘文館)